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むとう有子をとりまくうるさい人たちの声


No.13
指揮者まかせの時代ではない

片柳 悦正
 中野区の現状をオーケストラに例えたら、指揮者台に奏者がそのまま奏者として登壇してしまった…。区議会を傍聴した率直な印象だ。元区職員の新区長が誕生したわけだが、初登壇の発言には「長」としての認識が欠けているという感は否めなかった。
 区長職の最大責務は区民生活の向上と安定、自治権の確保にあるはず。そのための自治体レベルでの政治判断をしていくところに最大の責任があるはずなのだが・・・。
 むとうさんが、新任にあたっての区長の考え方を議会で問いただした。警察学校の跡地利用に関して区長は「私がどうこういうことではない」「決まったかのような発言はできない」と発言。日の丸を巡り学校側からの思想・信条に関わる強制があったが(むとう議員自身が学校側から「席はないぞ」と言われた)と問うと区長は「強制があるとは認識していない」と発言。有事法制・住基ネットに対して意見書を出すべきではと問うと区長は「見極めたい」を繰り返すに留まった。
 もし、音楽で指揮者が音楽理念を示さずタクトを振ったら、演奏は壊れてしまう。演奏会の度に指揮方針が揺れても困る。奏者と指揮者は仕事が異なる。また、聴衆がそれを許したら音は更に曇ってしまうであろう。
 自治体政治の最終判断を区長が行なうというのは議会制民主主義の基本だ。しかし、その判断を支えるのは住民一人一人の意志の積み重ねであると思う。「首のすり替え」では意味がないし街は動かない。有名人信仰にすがったところで、相手は「神」ではないのだから結果は出ない。今必要なのは中野の「事実」を大勢の目で確認し、その対策を住民の意志として共有化していくことであろう。そして、その過程で「観る目・聴く耳」を住民一人一人が養っていくことだろう。
 それが可能になった時、良い区長(良い指揮者)に恵まれるのではないだろうか、良い街(良い音楽会)になり得るのではないだろうか。

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