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むとう有子をとりまくうるさい人たちの声


No.72
    科学と私たち

          加藤 忠男

 東北の大震災を目の当たりにした時、大地が崩れるような戦慄を感じながら立ち尽くしていた。悠久の大自然における人間の位置があらためて胸に焼きついた。

 不意に凶暴さを現す自然は古くから形而上の対象ともなった。自然科学はこれに対する挑戦ともいえ、福島の原発事故もこの流れの上にある。しかし事故後の実情を知るにつれて、原発の安全神話なるものに驚愕した。自然は偽らないが、人知はどうだろう。自然災害と人災の違いはこのあたりにある

 福島の原発事故は科学技術に特化した文明の傲慢さと脆弱さを私たちの胸に突きつけた。これを機に生活様式の再検討が始まり、この文明の方向は修正されるはずだった。

 あれから5年余り、飽くことのない富の追求、貧富の格差の拡大、犯罪とテロの増加、人間的な生存さえ荒廃にさらされている。そして原発再稼働と憲法改定、沖縄問題の矮小化。それは明確な理念を失った現代文明の崩壊さえ予感させるものとなっている。為政者はこれを直視せず、破滅のプロパガンダ(宣伝)を美しく奏でているかのようだ。

 私たちは危機的な未来を想起すると、「あり得ないことだ」と眼をふさぐ。ある種の生物が逃れようもない危険を察知すると、仮死してやり過ごそうとするのに似ている。
 生物と同じく私たちも、この世で一回限りの生を生きている。知識を手に入れ、倫理性という内面を身につけていくのだが、それも生の終わりと共に無にかえる。次の世代の子どもたちはあらたに原始性を帯びた無知から生きはじめることになる。客観的な知識は百科事典に保管され次世代に引き継がれるが、一回限りの生を受けた私たちの内面性はその都度断ち切られる。この一回限りの内面性が、進歩する自然科学を制御していくのだが、その道しるべは、確かアメリカ先住民が伝えたという次の言葉であろうか。「この大地は子孫から借り受けたものであり、我々はこれを汚さず子孫へ返す責任がある」。

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