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むとう有子をとりまくうるさい人たちの声


No.73
   人間として

          下田 洋一

 このたび沖縄における米軍基地建設を阻止しようとしている沖縄の人々に対し、大阪府警の警官が「土人」の言葉を投げつけた。「土人」は侮辱する言葉として最大級のものである。このたびのことは問題を根本から考えておく必要がある。そこで次の事例を参考にする。

 1961年、ナチスの戦争犯罪者アドルフ・アイヒマンの裁判が開始された。アイヒマンはナチス・ヒットラーのユダヤ人大量虐殺を実行する指揮官であった。アイヒマンは裁判でこう言ったという。自分は組織の一員として組織の決定に対し忠実であっただけで、有罪にするのであれば組織を有罪とすべきだ。このアイヒマンの主張には、彼がユダヤ人を平気で大量虐殺し得た因が存している。
 組織の一員として組織に忠実であるだけでいると、その者は組織が命じるとき、それをそのまま実行することになる。それが人を殺すことを命じるときであっても、それを実行するということが生じる。このとき、これを実行することが「人間として為してよいことか」というところから物事を判断することが、この者にはできにくくなっている。その判断がこの者に欠落するということが生じている。
 この者にはそれゆえ、人を殺すことは人間として為してはいけない、これを為したら人間であることを失うという罪の意識は起こらない。罪の意識無く平気で人を殺すことができるようになる。アイヒマンが平気でユダヤ人を大量虐殺し得たのはこのゆえであったと言ってよい。このたびの「土人」発言には、このアイヒマンの問題性と通底するところがある。
 組織の一員として組織に忠実であるだけでいると、その者には「人間としてどうか」の問いが自分の中で起こらないということが生じる。このたびの「土人」発言はこの問題としてもとらえるべきと思う。

 この問題は公共行政の担当者全てに向けなければならない。「人間としてどうか」の問いは彼らにこそ向けられねばならない。というのは、彼らはこの問いが消える状況にいつも置かれているから。



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