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むとう有子をとりまくうるさい人たちの声


No.74
   おふくろのクレパス画

          木曾 秋一

 架空の花咲く大樹と、ときにはその傍らに可憐な草花が一輪描かれている。手許に残された18冊の画帳がほとんど同じような絵柄だ。全体にどこかたどたどしい筆触なのだけれども、稚ないこどもなどが描いたものとは少しばかりどこかが異なる。

 1884年、東京の指ヶ谷に生まれた。きかぬ気の総領娘で、早くからソバ屋なんかの小女奉公にだされたが、22歳のときに世話をする人があって、ひとつ年下で植木の庭師だった私の父と、日暮里富士見坂をのぼりつめた所に、店構えもある借家で世帯を持った。
 父は、町の消防組にも詰めたりして火事場の修羅もたびたび潜り抜けたが、早くに病死する。おふくろは4人の子どもを成人させるが、商い、食べ物ごしらえ、針仕事がすこぶる好きなたちなのに、61歳の秋に左脳内出血で、利き手の右腕手首と脚が全く動かなくなる。
 悲嘆と無聊の長い日々が続くが、ようやくおぼつかぬ左手をあやつって、大小様々なほとんど同じ顔立ちをした幼女を描き始めたりした。
 その頃。油絵で船舶のシリーズを描き続けて名のある賞なども得ていた旧友の津川敬君がおふくろの見舞いにくれたのが、24色のさくらクレパスであった。「色は怖いねぇ。なんだかしんないけども……」
 それでも気になるのか、動く方の左手で明るい彩色の外箱のあたりをさすったりしている。「学校なんかあたしゃ、大嫌いだったのさ」などと口にしていたけれど、あれは勉強をする機会にめぐり逢えなかった負け惜しみだったのかもしれない。けれども識らぬ事柄を訊くことは好きで、それが耳学問だと名づけて笑顔を見せた。

 85歳でまるで眠るみたいに亡くなったが、中国胡南省の兵站病院で戦病死をしたという長男の姿を夢に永いこと見続ける。肚の底から戦さを嫌った。クレパス画帳はそんなおふくろの形見だ。



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